キリスト教: 全能の神がいるのに、なぜ世界は不完全なのか

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このページの最終更新日: 2024/07/13

  1. はじめに
  2. 聖書にも、たくさん理不尽な事実がある
  3. 結論 1: 「全能」の定義の問題
  4. 結論 2: 結局は「試練」ということらしい
  5. その他メモ

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はじめに

この ふしぎなキリスト教 (Amazon link) という本を読んだのがきっかけで、このページを作ることになった。「ふしぎなキリスト教」のまとめ ページも参照のこと。


キリスト教では、とにかく神は全知全能で、何もかも正しいとされている。しかし、世の中には多くの悲劇があり、悪人もたくさんいる。なぜ、神はそのような「悪」の存在を許しているのか? なぜ、神は完璧な世界を作らなかったのか?

聖書にも、たくさん理不尽な事実がある

ノアの方舟

いくつか例を挙げてみる。たとえば、ノアの方舟のエピソードでは、人間が堕落しているから神がお仕置きしたということになっている。しかし、そもそも人間を作ったのは神である。不完全なモノを作った責任、というのはないのだろうか。

ヨブ記

また、「ヨブ記」という書があり、ここには人々が持っていたであろう疑問が友人の言葉として書かれている。

  • 主人公のヨブは、何も悪いことをしていないのに、次々と不幸に見舞われる。
  • 友人たちは、ヨブが隠れて何か悪いことをしており、不幸はそれに対する神の罰だと言う。
  • ヨブは自分の責任を決して認めず、友人をなくしてしまう。
  • ヨブは神に「なぜこんなことをするのか」と語りかける。神はなかなか答えてくれないが、やがてヨブを幸せにしてやり、なぜかハッピーエンドになる。

以下はヨブに襲いかかるサタン (Williams Brake による、Public domain)。

ヨブに襲いかかるサタン

禁断の木の実

最後に「禁断の木の実」のエピソードを書いておく。有名な話なので、知っている人も多いだろう。

エデンの園は完璧だったが、アダムとイブは蛇 (サタン) に唆されて知恵の実を食べてしまう。彼らは罰として楽園を追放される。つまり、世界が完全でないのは、ここがエデンの園ではないからである。

一応の回答にはなっているようだが、やはりここもすっきりしない。神がアダムとイブを罠にかけたように見える。そもそも、食べたらいけないものを何でそのへんに放置しておくのか。

サタンの存在にしてもそうである。全能なら、蛇をエデンの園から最初に追放しておけばよかったんじゃないか。

ということで、これもあまり腑に落ちる回答にはなっていない。


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結論 1: 「全能」の定義の問題

「神は全能」という概念は、言葉通りには解釈できないものらしい (2)。文献 2 曰く「『神はなんでもできる』とは、『神は、すべて意義あること、すべて可能なことを行い、すべてに筋を通すことができる』という意味です。ですから神は、自分の存在を停止させたり、善を悪としたりすることはできません」。

どうやら、神は間違いを犯したり、丸い四角を作ったり、自分が持ち上げられないほどの大きな石を作って持ち上げたりすることはできないようだ。「結論 2」では、神の考えは偉大すぎて人間には理解できないということになっているのに、能力的には意外と人間が理解できる論理に縛られているらしい。

「悪」は人間が自由意志で選ぶものである。人間から自由意志を奪ってしまうことは、本当の「愛」ではない。自由意志をもたない人間を作って、かつ「本当の愛」を実現させることは、丸い四角を作ることと同じで神にも不可能である。

したがって、この世には人間の自由意志による選択の結果として「悪」がある。


まあ、筋は通ってる気がする。でも、この理論が通るんだったら、別に「神」はそんなに大したものじゃなく、多神教の神と大して変わらないように思う。良い神もいて、悪い神もいる状態。それか、神の能力にも限界があって、人間を守ろうと努力はしているけど、完全な世界を作れない状態だ。

また、人間の自由意志の結果として世界に悪があって愛もあるんなら、それが人間の営みということであり、神は実際に何もしてない (不要) という話になるんじゃないか。これは無神論の論理である。良いことがあったら神のおかげで、悪いことは人間の自由意志というダブルスタンダードは、よく見る話ではあるけれど。

この説明、論理的な矛盾はないような気がするが、絶対的な神を抱く一神教とは相容れないように思われる。

結論 2: 結局は「試練」ということらしい

もう一つの結論はよくある話で、要は 試練 ということらしい。現在は過渡期であり、不幸は一時的なものである。最終的には、理想の世の中が実現して、全て報われるというのがキリスト教の教え。その日まで、神をただ信じてついていくのが「信仰」である。

神を信じるのは、自分に「ご利益があるから」であってはならない。そんな損得勘定を抜きにして、ひたすら信じる。それが、最終的に救われる唯一の道である、というのがキリスト教の「正しい」回答のようだ。

また、神の計画は人間の理解を超えている というのも回答である。つまり、 人間の目からはいろいろ理不尽なことがあるように見えるが、それは所詮人間の理解の及ぶ範囲での解釈でしかないという説明である。

たとえば、スーパーで子供がお菓子を欲しがって泣き叫んでいるとする。子供がかわいそうというのも一理ある考えだが、両親は子供の考えよりも深い観点から、そのお菓子を買わない方が良いと判断しているわけである。もちろん、神と人間との違いは、この両親と子供の違いよりもはるかに大きい。

もう一つの例 (2)。キリストが磔にされたのは、その時点ではまさに「最悪」の出来事だったが、実はキリストの犠牲によって全人類が救われることになった。つまり、神レベルの視点でなければ、何が本当に「良いこと」なのかわからない。


以上を私の言葉で書いてみる。

つまり キリスト教というのは、神の無謬性を前提とする一つの公理系 axiomatic system である

したがって、目に見える世界の不完全性を根拠に、神の無謬性を論理的に否定するならば、それはその論理のほうが間違っているわけである。それはたかが人間の認識であるわけだし、いかにそれが正しく見えても、公理は否定できないのだから。

これは、古代の学問の大まかな分類とも関係する話である (1)。学問は、大きく神学と哲学とに分かれていた。神学では、信仰を以て世の中を理解しようとする。つまり、神の無謬性というのはすでに前提としてあるのである。当然、人間の理性では理解できないこともあるが、それは問題ではない。

これに対して、哲学は理性をもって世の中を理解しようとする。現在、この言葉は狭義の哲学を意味することが多いが、もともとの意味は神学に対する哲学であり、数学、物理学、生物学・・・などの分野は全て哲学である。

博士号を Ph.D. = Doctor of Phylosophy というのは、これに由来する。

その他メモ

以上の説明で論理的に矛盾は生じないはずであるが、実際に悲劇に直面したときに、これでは納得しない人がいるのは容易に予想できる。

これは一神教を受けて入れている人にとって根本的かつ大きな問題だったようである。したがって、「なぜ悪があるのか」については、古くから多くの論法があるようだ。

グノーシスという悪の神を想定する二元論もあったようで、これは面白そうなので、いつか情報を追加してみたい。

なお、仏教では、自然現象の背後に神はいないので、理由は必要ない。仏は、自然現象の法則をよく理解したもののことをいう。

それでも神は実在するのか? メモ

リー・ストロベル それでも神は実在するのか? 「信仰」を調べたジャーナリストの記録 (Amazon link) より。

外国人の著者に特徴的な、不要と思える細々した日常生活情報がちりばめられていて読みにくい。キリスト教によくある 8 つの疑問で章が作られているが、かなり重複しているようにも思える。

本書から回答っぽい箇所を引用してみよう。このページの「結論 1」「結論 2」とも重複するが。

  • 「こうした一時的な悲劇の先に、ずっと長期的な善や幸福が待っている... (中略) 有限の知識と存在しか持たない人間が、どうして「そうじゃない」と言えるのでしょうか」
  • 神は悪人を罰しないわけではなく、単に罰する時を審判の日まで遅らせているという記述も。
  • 実際に天国に行ってみれば、現世での苦しみは「ああ、あんなこともあったね」程度のものになってしまうほどの幸せが得られるらしい。これも詭弁にしか思えないが。

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References

  1. 白取 2013a. この一冊で「キリスト教」がわかる! 三笠書房、知的生きかた文庫.
  2. リー・ストロベル, 2005a. それでも神は実在するのか? 「信仰」を調べたジャーナリストの記録 (Amazon link).

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