邪馬台国論争: 畿内説・九州説の概要と新しい発見
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概要: 邪馬台国論争とは
邪馬台国 (やまたいこく) は、2 - 3 世紀ごろに日本列島に存在したとされる国である。
日本最古の書物は聖徳太子の法華義疏 (615 年頃)、日本最古の歴史書は古事記 (712 年) であり、2 - 3 世紀の文献は残されていない。邪馬台国に関する記述は、当時の中国の歴史書にあるもので、そのなかで最も詳しいものが「魏志倭人伝」である。
ところが、魏志倭人伝の記述の通りだと、邪馬台国は日本の南方の海の中にあることになってしまう。このことから、魏志倭人伝の解釈の仕方によって、邪馬台国の位置が異なることになる。邪馬台国の位置を巡る一連の議論が、いわゆる「邪馬台国論争」と呼ばれる。
邪馬台国の位置については、現在の近畿地方周辺とする
邪馬台国については、以下のような点も興味深いが、このページでは畿内説、九州説に関する情報を中心にまとめることにする。
- 卑弥呼がどのように国を治めていたか
- 卑弥呼と天照大神など、日本神話との関係
- 邪馬台国とヤマト政権の関係
- 当時の風俗・外交
なお、このページは邪馬台国については真面目に調べたものではなく、日常生活で見聞きする情報をまとめているだけである。文献リストを見てもらえばわかるように、学問的な正確性は低い。
卑弥呼は魏から銅鏡 100 枚を贈られたという記述があり、この銅鏡がまだ発見されていない。これが、たとえば箸墓古墳などから発掘されれば、邪馬台国の場所を比定する有力な証拠になる。
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畿内説
魏志倭人伝の「南」を「東」に読み替えて、邪馬台国を畿内に比定している。2024 年ごろ、「研究者のほとんどは畿内説」というツイートを目にしたことがある。
基本的なポイントは以下の通り。
根拠
魏志倭人伝 |
|
遺跡 |
纏向遺跡。 |
卑弥呼の墓 |
現在の奈良県に、箸墓古墳 (はしはかこふん) という前方後円墳がある (写真は public domain)。被葬者は不明だが、宮内庁により第 7 代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されている。また、笠井新也の研究以来、卑弥呼の墓ではないかとする学説もある。 ちなみに、前方後円墳はヤマト王権の特徴で、その分布と年代から、ヤマト王権の勢力範囲を水底することができる。 |
九州説
根拠
邪馬台国東遷説
九州説の一部である。邪馬台国は 3 世紀に九州にあり、4 世紀にかけて東の大和地方に移動してヤマト政権になったとする説。記紀の「神武東征」はこれを記録したものと考える。
高木彬光 邪馬台国の秘密 読書メモ
高木彬光 邪馬台国の秘密 (Amazon link) のメモ。小説の形をとっているが、著者が調査した内容を登場人物に語らせたドキュメンタリー的な本である。邪馬台国の話に興味をもったのはこの小説が初めだった。再読しつつ簡単にまとめた。
- 魏志倭人伝の原文は約 2 千字ほど。
- 東大は九州説、京大は畿内説という対立があるらしい。畿内説では、内藤湖南 (ないとうこなん) の説が有名。魏志倭人伝の「南」を「東」と解釈し、投馬国を広島県の三田尻付近と比定。
- この本では、上陸点を神湊と推定。一般には東松浦半島とされているらしい。
- 帯刀郡 - 邪馬台国が 12,000 余里、他の行程を全て合計すると 10,700 里。この差をとって投馬国と邪馬台国は 1,300 里離れているとされていたが、これは各距離を記述する際の誤差に含まれ、両国は隣接していたとする。
- 「水行十日、陸行一月」という記述は、出発してから邪馬台国までの全日程を振り返ったものと解釈。
- 最終的に、邪馬台国を現在の大分県・宇佐に比定している。
- 宇佐八幡には比売大神、応神天皇、神功皇后が祀られている。一応、応神天皇がメインとされているが、並びでは比売大神が中央。応神天皇、神功皇后よりも格上の神 (= 卑弥呼ぐらいしかいない) だったということになるか?
- 宇佐八幡が実は前方後円墳であり、石棺が埋められているという目撃証言がまとめになっている。
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References
- Amazon link: 高木彬光 邪馬台国の秘密. 小説の形式をとっていて、面白く読みやすい。科学的に支持されている内容ではなさそう。
- Amazon link: あおきてつお 漫画家が解く古代史ミステリー 邪馬台国は隠された. 文献 1 と似た主張で、邪馬台国は現在の宇佐にあったと考えている。
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