なぜ人を殺してはいけないのか - 回答と考察
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概要
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いがある。
この問いの前提
文献 1 より。この問いが成り立つ前提として、自由の普遍性がある。つまり、ふと誰かを殺したくなったという状態まで含めて、「やりたいことをやってよい」というのが公理として成り立っていて、これには説明が不要である。「人を殺してはいけない」と、この自由を制限する場合に説明が必要とされる。
言い換えればこの疑問は、自由がまず無条件に存在し、さらに道徳よりも優位に立っているという前提になっていることから生じる疑問である。この前提を認めない、次のような回答もあり得るのかもしれない。「お前の自由意志よりも、他人の命のが重い。したがって、殺してはいけない理由を説明する必要がない。どうしてもそれをしたいなら、お前が"人を殺してもいい理由"を考え、道徳を否定しなければならない。」
自分がされたくないことは、人にしてはいけない
一つの答え方であり、これは「相互性の基準」という概念になる (1)。
この答えはちょっと筋が悪い。なぜならば、この考え方では、「自分が殺されてもいい人」による殺人を否定できないためである。実際に、過去の大量殺人者のなかには「死刑にして欲しかった」と供述した犯人もいる。
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契約論
典型的な説明は以下の通り。すなわち、本当は人を殺しても良い。しかしこれは自分がいつでも殺されうることを意味する。それを避けるために、我々は人を殺す権利を放棄し、それを国家に委ねた。国家は殺人の禁止を法として定めた。これは17 世紀の哲学者トマス・ホッブスの論理である。このようにして、近代の人は国家との契約を結んでおり、無条件の自由を放棄、法で定められた範囲の「近代的な自由」をもっている。
この論理は、同時に「無条件の自由」とは異なる「近代的な自由」という概念を提示している。つまり、人間が本来もっていると考えられる「自由」の一部が法によって取り去られ、法に定められた範囲内での「近代的な自由」が定義される。
「無条件の自由」が頭にある現代人からすると、これは法による自由の制限のような印象であり、実際にそうなのだが、この概念が成立した時代背景を考えると状況が少し変わる (1)。当時は王権が存在していた自由であり、貴族は好きなことをできるが、市民にはあまり自由という概念はなかった。この思想は「自由」をまず貴族ではなく個人に帰属させ、その上で法による制約を加えたものと言えるようである。
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References
佐伯啓思 「自由とは何か『自己責任論』から『理由なき殺人』まで」.
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