自由・権利には責任・義務が伴うという命題について

UB3/history/concept/freedom_responsibility

このページの最終更新日: 2024/02/14

  1. はじめに
  2. 「自由」の定義
  3. 結局、どういうことなのか

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はじめに

昔から「自由・権利には責任・義務が伴う」という言い方が好きではなかった。基本的人権を侵害するときによく使われる言い方だからである。

コロナウイルス のワクチンを巡って、バイデンがこんな底の浅いツイートをしているのを見るに至って、この気に食わない考えに対して、きちんと理論武装しておく必要があると考え、このページを作った。

バイデンのツイート

少なくとも、自由と権利を主語にしたもの、責任・権利を使うものなど、いくつかのバリエーションがある。英語の with freedom (rights) comes responsibility は倒置法。

  • 自由には責任が伴う
  • 権利には責任が伴う
  • 自由には義務が伴う
  • 権利には義務が伴う

ここでは、まず最初の例「自由には責任が伴う」という命題について考えてみる。なお、私は哲学を学んだりしたわけではないので、この考察にも浅い点や不備があるかもしれない。必要に応じてアップデートを続ける予定。

2022 年 5 月、ブログの方のコメントに応じてアップデート。いろいろ考察にミスがありましたので再編集中です。ご指摘には感謝しますが、文体が攻撃的なので、コメントは載せないでおく。

「自由」の定義

まずは、「自由」という言葉の定義をまとめてみる。

自由という言葉は、1789 年の人権宣言によって次のように定義されている (1)。

自由とは、他を害しない一切のことをなしうる能力をいう。各人の自然権の行使は、社会の他の成員のおなじ権利の享有を確保すること以外に限界をもたない。この限界は法律によってのみ定められる。


つまり、自由とは 他人を害しない限り何でもできること であり、法律のみが自由を制限することができる。

フリードリヒ・ハイエク『自由の条件』 (1959) では、「一部の人が、他の一部の人によって強制されることができるだけ少ない状態、それが自由の状態である」と述べている。

歴史的には、まず絶対王政への抵抗から、自由という概念が出てきた。カルバン派プロテスタントが代表例。これが発展して、自由は人間に本来備わったものであり、これは社会や国家よりも優先であるとされる。この個人の自由を発見した流れが近代の意義であるという考えが主流。

しかし、人間は集団で暮らしているので、個人の自由がぶつかったときにどうするかという問題が生じる。そこで、国家には自由を制限する権限を与えた。これが契約論。近代の人は国家との契約を結んでおり、無条件の自由を放棄、法で定められた範囲の「近代的な自由」をもっている。

つまり、人間が本来もっていると考えられる「自由」の一部が法によって取り去られ、法に定められた範囲内での「近代的な自由」が定義される。

当時は王権が存在していた自由であり、貴族は好きなことをできるが、市民にはあまり自由という概念はなかった。この思想は「自由」をまず貴族ではなく個人に帰属させ、その上で法による制約を加えたものと言える。


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結局、どういうことなのか

結局のところ、「人間が本来持っている自由」と、契約論による「近代的な自由」を同じ「自由」という言葉で表現しているのがそもそもの問題なのだろう。

その限界を定めるのが「法律 (ローカルルールも含むだろう)」ということだが、これは法律がリーズナブルなときに正しい境界として機能する。現在では、ルールというのは要するに権力者が利益を得るために作るもののことであり、機能していないことが多いにも関わらず、「自由は責任を伴う」ということで自由の抑圧が正当化されている状況がある。

経験的に、このフレーズはろくでもないルールを押し付けるときに使われることが多いので、気に入らないのだろう。最初に挙げたワクチンの話でも、結局コロナの感染を防げなかったわけで、ワクチンパスポートを導入しなかった or 廃止している国が多いことが全てを物語っている。この記事にはいくつか上から目線のコメントがついたが、権力に従順な人からのコメントだなあという感想しかもてなかった。

人間に本来備わった「自由」は、「責任」とは関係しておらず、独立して存在するものなのではないかと思う。自由とは自ずからあるもので、社会生活によって他人の自由を侵害しないために、社会的ルールとして責任が生じる。「自由も責任もある」のであり、「自由があるから責任がある」ではないのだ。

地球に「山」と「海」があり、これらは一見関係しているようにも見えるが、実は山がなくても海は存在できる。

自由と責任を一緒に語るのがそもそも間違い、というのが現時点で私が辿り着いた結論だ。

佐伯啓思「自由とは何か『自己責任論』から『理由なき殺人』まで」

読んだ本のメモ。著者は Wikipedia にもページがあるちゃんとした経済学者・思想家。

現在、多くの人々は自分の自由が迫害されているとは感じていないが、専門家たちは活発に自由に関する議論を戦わせている。自由への関心、要求において乖離がある。筆者の考えでは、これは自由の本質を表している。つまり、人々が切実に自由を必要とするとき、彼らは「自由とは何か」を論じたりはしない。逆に、自由についてあれこれ議論しているときには、人々は自由を渇望してはいない。筆者はこれwパラドックスと呼んでいるが、そんな大層なものには思えない。抑圧された人々は単に異なる優先順位を一般にもっているというだけで、別に自由論を戦わせても問題ないし、このように現実的なレベルでしか相反しないものを「パラドックス」というのは、ちょっと大袈裟ではないか。

人間の本質は自由であるという思想は、西欧思想に強く根付いている。しかし、人間の歴史を通じて自由を追い求めた人間はそれほど多くない。飛び魚がいるのに、魚の本質は空を飛ぶこととは誰も言わない。なぜ、人間の場合だけ自由が本質ということになるのか? ロシアの思想家ゲルツェンの問い。

自由と国家。人は個人の生命、財産を守るために国家を作ることに合意した。これがホッブス、ロック、ルソーらの社会契約という考え。国家に対して主権者としての正当性を与える一方で、人間が本来もつ「自由」にも自然法的な正当性を与えた。この構造下では、誰も「公」のために働こうという気にならないので、ある程度の強制力をもって個人が国家のために何かをしなければならないという仕組みが必要となる。

この内容はわかる。噛み砕いて言えば納税などがそれにあたるだろう。ただし、この次に「自分の信条は反国家的であるとか・・・などと宣言することは本質的に不可能なのである。これは道徳的であるかということではなく、そもそも不可能なことである」とあって、これはよくわからない。人間は現実的にどこかの国家に属していて (戦争などで国家が崩壊したらその限りではない気がするが)、そのことにもっと注意を払って欲しいと言いたいだけのような気がするが、それにしては表現が大袈裟すぎるように思う。上記の「パラドックス」といい、なんだかあまり言葉の厳密性がないような気がするのだが、社会科学というのがこういう言葉の使い方をする分野なのか、著者の特徴なのか。

経済の話。個人の自由を基本として、自由な市場経済を「良いもの」と考え、これに国家が介入するときには理由が必要と考えるのが一般的になっている。

アメリカのイラク攻撃。大義名分であった大量破壊兵器やアルカイダとの繋がりは実証されず、イラクに自由と民主主義をもたらすことが唯一の理由として残った。この自由と民主化には、イラク攻撃自体には反対であったフランス、ドイツ、ロシアなども表立って異を唱えることができなかった。裏を読むことはしない。アメリカのこの使命感の背後には、「人類史とはファシズムからの解放、自由と民主主義の実現である」という歴史観があった。第二次世界大戦、90 年台の東欧革命に「テロとの戦い」が加わったわけである。

アメリカが「世界の警察」となるの独善的ではあるが、実はこれを論理的に否定するのは難しい。アメリカの論理は「個人の自由は何よりも尊く、それは世界の誰もがもっている普遍的なものである。ゆえに、それを迫害するものは軍事的に攻撃されても仕方ない」というもの。個人の自由を崇高かつ普遍的なものと認めてしまえば、この論理も筋が通ってしまう。

この個人の自由は、フランス革命の人権宣言によって定式化された。つまり西欧的思想である。ここで、自由を最高のものと認識し、自由と民主主義を実現できた西欧文化は、その他の文化よりも進んでいるという思想が生まれる。この思想に基づいて、アメリカは第二次世界大戦後に日本を「文明化」し、イラク戦争ではイラクを文明化したわけである。

ここで、自由を「強制されずに、自らの意志に基づいて行動する」ことと考えると、また矛盾が生じる。イラクの例ならば、イラク人が独自の国家をもつことこそが自由であって、アメリカに強制された自由は自由でないということになる。

以上の論理はわからないでもないし、私は世界の警察としてのアメリカは大嫌いなのだが、「イラク」の認識が単純すぎないだろうかと気になる。たとえばイラクの庶民が、自分の国を作ることなどよりも、軍事政権によって苦しんでいる状態からの解放を願っているとしたら、アメリカ的な自由 = イラク庶民にとっての自由ということになり、アメリカはまさにこの論理で軍事行動を起こしたのではなかったか。イラクが一枚岩で、国民がみな自分たちで問題を解決したいと願っている状態でしか、著者の論理は通用しないように思える。

普遍的な自由と、多様な社会が存在することを認める自由という二つの概念ができてしまう。これらは調和しているわけではなく、ときに対立する。アメリカでは、80 年台から90 年台にかけて、マイノリティの権利保護の動きから、後者の考えが強くなってきていた。アメリカにおいて建国の理念であった西欧的自由は、移民の多いアメリカでは文化の一つにすぎないというアイデンティティー崩壊の危機があり、「テロとの戦い」はこれに対する反動である。

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問い。これについては なぜ人を殺してはいけないのか というページを作ったので、そちらを参照のこと。


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References

  1. 小嶋和司、立石眞『有斐閣双書(9)憲法概観 第7版』有斐閣、2011年、93頁.
  2. 山口尚 第三章 自由と責任の哲学――人間存在への問い. Link: Last access 2022/5/24.
  3. 内藤準. 自由と自己責任に基づく秩序の綻び ─「自由と責任の制度」再考─ Link: Last access 2022/05/24.

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