ドイツにおけるユダヤ人

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このページの最終更新日: 2024/02/14

  1. 概要: ユダヤ人とドイツ
  2. 古代から中世
  3. 大航海時代
  4. 産業革命以降

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概要: ユダヤ人とドイツ

ユダヤ人がナチスによる迫害を受けたことはよく知られているが、その歴史的背景は知らない人が多いのではないだろうか。私もあまり知らなかったので、この本の内容を中心にまとめてみた。現時点では、ほぼ全ての記述がこの本に由来する。情報が増えてきたら、この本も参考文献の一つとして整理する。

まず、このページでは「ユダヤ人」という言葉を使っているが、ユダヤ人を厳密に定義するのは難しい。本の記述に従い、イスラエル人、ユダヤ教徒、またはユダヤ教の伝統や文化を重んじている人をユダヤ人とする。


古代から中世

バビロニア捕囚から解放されたあと、一部のユダヤ人はパレスチナに帰還、一部はバビロンに留まり、民族の離散が始まる。その後エルサレムがローマ軍に破壊されたのが 66 - 70 年ごろ。それから 1948 年のイスラエル建国まで、ユダヤ人は国家を持てなかった。ユダヤ人がこの間独自の文化を守ることができたのは、世界史上特筆すべき出来事である。

ローマ帝国の奴隷とされたユダヤ人は、ドイツ民族が国家を形成する前から、ライン川沿いなどに定住していた。700 年代 (中世) には、すでにユダヤ人が活発な商業活動を行っていた記録がある。迫害の歴史も古く、1096 年からの第一回十字軍では、ユダヤ人はキリストを殺した民として憎悪された。これには、ユダヤ人の富を奪うことを正当化するという側面もあり、十字軍はユダヤ人居住地を襲って物資を調達し東方へ遠征した。

第一回十字軍あたりから、ユダヤ人は金貸しとして非難され始めていた。1215 年、第4回ラテラノ会議が、キリスト教徒が利息をとって金を貸すことを禁止するとともに、ユダヤ人を多くの職業から締め出した。結果的に、ユダヤ人は金貸し業を選択せざるを得なくなった。この仕事は、いつでもコミュニティから追放される可能性のあるユダヤ人にとって都合が良かった。借金を帳消しにされることも多かったため、金利は年利 174% という数字も記録されているほどに高かった。この「高利貸し」のイメージは、ユダヤ人への憎悪を増す結果となった。

シェイクスピア「ヴェニスの商人」に登場する高利貸しシャイロックは、ユダヤ人のステレオタイプである。この作品は 1594 - 1597 年の間に書かれたとされ、後述するルターの「ダヤ人と彼らの虚偽について」に近い年代である。


第 4 回ラテラノ会議では、キリスト教徒はユダヤ人と同席して飲食してはならないなど、さまざまな差別政策が決定された。ユダヤ人はゲットーに隔離された。最も有名なのは、フランクフルトのゲットーである。「ゲットー」は、おそらく隔離を意味するヘブライ語 Ghet と関係があり、16 世紀前半からユダヤ人の強制移住地区を意味する言葉として使われた。ユダヤ人たちはゲットーに隔離され自由を奪われたが、ゲットー内では独自の信仰や裁判などが認められたため、ユダヤ文化はむしろ定着した。


フランクフルトのゲットー

フランクフルトのゲットー (Public domain)。1628 年に書かれた絵で、左下の円状の城壁に沿って小さい家がぎっしりと立ち並んでいる部分がゲットーである。年の他の部分にあるような公園などはみられず、下水の排水路に蓋をしてはならないというルールがあったため衛生環境は非常に悪かった。


宗教改革で有名なルターは、キリスト教への改宗が失敗に終わったことから晩年にはユダヤ人を憎むようになり、1543 年に「ユダヤ人と彼らの虚偽について (「嘘について」という訳もある)」を出版した。この本には、のちにナチ政権が実行した反ユダヤ政策の大部分が含まれていた。

大航海時代

15 世紀末、大航海時代における商品経済の発展は、ユダヤ人の経済活動をさらに拡大させた。彼らは高利貸しに並行して広域商取引を行うようになる。ヨーロッパの中でも封建制度が遅くまで残り、小さな領地に分断されていたドイツは、ユダヤ人にとくに強く経済的に依存した。1618 - 1648 の三十年戦争から、1813 のナポレオン支配からの解放戦争に至るまで、ユダヤ人の資金なしに行われた戦争はほとんどなかった。1861 - 1865 のアメリカ奴隷解放戦争でも、北軍はフランクフルトのロスチャイルド銀行に資金源を求めた。

フランスでは、フランス革命の 2 年後 1791 年にユダヤ人に市民権が与えられたが、ドイツでこれが起こったのは 70 年以上もあとのことだった。ナポレオンの支配下だったので、実質的にはフランスの手によって行われたとも言える。この時期の詩人ハイネはユダヤ人。

産業革命以降

19 世紀後半の産業革命、ユダヤ人は躍進し、ドイツで大きな富を獲得した。第一次世界大戦の敗北後、国民の不満の中で敗戦の責任をユダヤ人に押し付ける反ユダヤ的な風潮が高まっていったワイマール時代 (1919 - 1933)。1919 年には、ナチスの全身であるドイツ労働者党 DAP が結成された。1910 年前後、若き日のヒトラーはウィーンで過ごしており、当時のウィーン市長ルエガーは熱烈な反ユダヤ主義者だった。ヒトラーの著書「我が闘争」からも、ヒトラーがこの市長から受けた影響を読み取ることができる。

この時期のドイツのノーベル賞受賞者のうち、およそ 25% がユダヤ人だった。アインシュタイン、フランク、ヘルツなど。ユダヤ人人口が 1% ほどだったことを考えると、この率は非常に高い。その職業上、ユダヤ人は都市に多く住んでおり、教育・文化水準が高かったことが要因と考えられる。マルクス、メンデルスゾーン、フロイトなどもユダヤ人。

ベルサイユ条約とその後決定された支払い不可能な額の賠償金 (1320 億マルク) は、ドイツに激烈なインフレをもたらした。1923 年、マルクの対ドル為替は 1 兆分の 1 にまで下落。経済的に不安定なところに、1929 年の世界大恐慌の影響もあり、国民の不満を背景にナチスが議席を獲得してゆく。ヒトラーは、この時期にすでにユダヤ人を「流血を伴って」ドイツから除去するという考えを著していた。

1933 年、ヒトラーが首相に就任。その二ヶ月後、「国民と国家の危機を取り除くため」に、政府に立法権を委ねる法律が成立した。三権分立の崩壊である。数多くの反ユダヤ政策が実行に移され、やがて市民権も剥奪された。多くのユダヤ人がこの時期に国外に脱出したが、ドイツはそれを抑制する法律も多数制定した。

1939 年、経済危機のもとでも軍備拡大を続けてきたナチスの経済は壊滅状態にあった。ソ連と不可侵条約を結んだのち、ドイツはポーランドに侵攻。戦争の時期に、国外排除であったユダヤ人への政策は虐殺へと変わっていった。1941 年ロシア侵攻の際にこれが顕著となり、多くのユダヤ人が虐殺された。文書による記録はなく、具体性に関する議論はあるものの、ユダヤ人絶滅の命令はこのときに出されたと考えられている。対象は全ヨーロッパにおよび、犠牲者は 600 万人と推定されている。

終戦後、一時期ドイツでこの話題はタブーとなったが、その後ドイツは国としてユダヤ人とよりを戻すために大きな努力を払っている。


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